太興院

太興院の仏さま



龍雲山太興禅院公式サイト


         2023年12月31日現在


■太興院の仏さま



太興院の本堂内陣の諸尊

「概要」
このコーナーでは、太興院の仏像を紹介いたします。普段太興院にお詣りのときは堂前からの参拝となります。親しく仏像を観ることはできません。太興院の財宝として登録している仏さまを紹介致します。

阿弥陀如来

十六羅漢

西国三十三観音

弘法大師

釈迦如来

両祖

大権・達磨

秋葉三尺坊権現
地蔵菩薩

地主神

次に太興院の財宝に登録されていませんが禅宗の七堂伽藍に於いて必ず祀られる仏像を紹介いたします。こちらはどの寺院でも部外者は立ち入れない場所に祀られていますのでお詣りすることはできません。

観音(接賓)

跋陀婆羅尊者(浴室)

烏枢沙摩明王(東司)

韋駄天

大黒天

掛け軸(書院)




阿弥陀如来

 

    本堂本尊阿弥陀如来            観音堂中尊阿弥陀仏


「解説」
太興院の本尊「阿弥陀仏」は、残念ながら制作年代や由来は伝わっていません。阿弥陀定印の座仏で、金剛界五仏(五智如来)の西に位置する無量光仏を独尊で祀ったものです。胎蔵では中台八葉院の西にやはり無量寿仏を祀ります。これは末法思想の流布によって平安時代後期に制作された方等系の来迎立ち阿弥陀仏とは性格を異にするものです。平安時代に入り密教がもたらされて観想のために作られた形です。浄土系の阿弥陀如来は四十八の願を発して西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を開き亡くなった方を救われます。人は亡くなる過程でトンネルのような管の中を通って行き(これは脳の神経の霊視です)、走馬灯のように一生の映像を一瞬のうちに見ます(これは酸欠状態に陥った脳が蘇生しようとして過去にこのような事例がなかったかどうか記憶のすべてを洗い出しているのです)。その先でいわゆるお迎えと呼ばれるまばゆい光に遭遇します(これは視覚細胞が死ぬ時にまばゆい光を感じるという説と臨死体験でまばゆい光を見て戻ってきても視覚に影響がないことから脳内活動による認識ではないという説があります)。
仏教文化では、この大いなる光のことを「法身ほっしん毘盧遮那びるしゃな」とします。また、この光を報身仏(ほうじんぶつ)としたものが密厳仏土の大日如来です。浄土教ではそれが阿弥陀さまとなります。阿弥陀如来(無量光仏)は五劫(ごこう)という非常に長い時間瞑想を修められ、自らの修行の結果として得られたお悟りの境地を楽しむ自受用三昧(じじゅゆうざんまい)にある仏さまです。報身仏であるということは死者と同じくその体は細身(さいしん=霊体)からできているということになります。だから往生した亡者に対して説法が可能ということになるわけです。
一方、阿弥陀仏の異名は胎蔵では中台八葉院の西におられる無量寿仏です。甘露王如来ともいい、この世で生きる者に不老長寿をもたらす仏さまとして信仰されてきました。よくお釈迦さまは「法身ほっしん毘盧遮那びるしゃな」がこの世に現れた応身仏(おうじんぶつ)であるといわれますが、お釈迦さまのみならずこの世で迷い苦しむ者を救うべく造られた仏像は皆応身仏であるといえます。
観音堂の中尊として祀られている阿弥陀さまは、昭和五年に十二代目の住持の坪内鉄城和尚が上げたものです。こちらは、来迎印(らいごういん)を結んでいます。浄土の阿弥陀如来は往生を叶え、この世の阿弥陀は息災や敬愛を成就してくださる仏さまです。また、悪霊や鬼神の類を摂受します。五大明王の中の大威徳明王の本地仏です。十二支では、戌亥年の守護仏とします。私事ですが住職は「亥年生まれなので太興院の本尊とご縁があったのだな」と感謝しております。真言は「おん あみりた ていぜいから うん」です。阿弥陀さまは蓮華を以って表象します。蓮華は慈悲を表します。最古の仏典「経集」には因果に基づく紅蓮地獄などの寒地獄が説かれていますが、阿弥陀如来はそれを極楽世界に変えたのです。亡者は観音がさし出だす蓮華に乗って浄土に往生するのですが、阿弥陀如来の信仰が起こった時代(紀元後1〜2世紀頃?)には宗教的なイノベーションが起こったわけです。梵字はキリークです。三十日秘仏の縁日は十五日が阿弥陀仏です。大日如来が太陽ならば阿弥陀如来は月です。本尊像高60,6cm。観音堂中尊像高34cm。




十六羅漢


 


  第十四ばつなはし尊者       第十五あしだ尊者


「解説」
羅漢さまとはお釈迦さまのお弟子さんのことです。お釈迦さまが亡くなった後、お釈迦さまの教えを守って修行に励んだ尊い聖者のことです。その数は十六人とも五百人とも言われています。羅漢さまは始め中国の天台山の石橋に姿を現し、その後各地のお寺にお祀りされるようになりました。日本では禅宗の寺院で理想の修行僧の姿として重んじられ江戸時代には盛んに信仰されました。太興院の十六羅漢像は明治二十年に八代目の住持祖父江保順和尚が新調したものです。
尊像の名号と寄付者芳名をここに掲示いたします。
「太興院羅漢名号ならびに寄付者芳名」
迦葉=星野桂左エ門殿  阿難=星野梅嶺殿
第一びんどらはらだしゃ尊者=祖父江善蔵殿
第二かだかばしゃ尊者=山田市三良殿
第三かだばりだしゃ尊者=伊藤久兵衛殿
第四そびんだ尊者=恒川仁衛門殿
第五だこら尊者=上田常左エ門殿
第六ばつだら尊者=川村藤兵衛殿
第七かりが尊者=加藤市兵衛殿
第八ばじゃらほつたら尊者=橋本藤 郎殿
第九じゅうばが尊者=小川亀次郎殿
第十はんだが尊者=伊藤清三郎殿
第十一らごら尊者=小川縞治郎殿・伊藤平左エ門殿
第十二なぎゃさいな尊者=成瀬常助殿
第十三いんかだ尊者=小川忠三郎殿
第十四ばつなはし尊者=橋本仁三郎殿
第十五あしだ尊者=宮田伊重殿
第十六じゅうだはんだが尊者=永井為蔵殿
本来、羅漢像は山門或いは独立した羅漢堂にお祀りしますが、太興院の場合、山門に祀る場所がないので須弥壇に本尊と一緒に祀っています。像高約30cmです。





西国三十三観音




                         西国三十三観音


「解説」
太興院の西国三十三観音像は、昭和五年に十二代目の住持の坪内鉄城和尚が上げたものです。残念ながら施主の資料などは残っていません。観世音菩薩は、インド・中国・日本でもっとも親しまれている仏さまのひとつです。観音さまは、私たちの願いを叶えるために三十三の身を現わし、補陀落山(ふだらくせん)に住むといわれています。わが国では和歌山の那智山が、この補陀落山であるとされています。そこに建つ青岸渡寺(せいがんとじ)を札所の第一番に西国三十三観音霊場が設けられ、谷汲山の華厳寺が第三十三番となっております。西国三十三観音霊場は次の通りです。
第1番 那智山青岸渡寺(なちざんせいがんとじ)
第2番 紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)
第3番 風猛山粉河寺(ふうもうさんこかわでら)
第4番 槙尾山施福寺(まきのおさんせふくじ)
第5番 紫雲山藤井寺(しうんざんふじいでら)
第6番 壷阪山南法華寺(つぼさかやまみなみほっけじ)
第7番 東光山岡寺(とうこうざんおかでら)
第8番 豊山長谷寺(ぶざんはせでら)
第9番 興福寺南円堂(こうふくじなんえんどう)
第10番 明星山三室戸寺(みょうじょうさんみむろとじ)
第11番 深雪山上醍醐寺(みゆきさんかみだいごじ)
第12番 岩間山正法寺(いわまさんしょうぼうじ)
第13番 石光山石山寺(せっこうざんいしやまでら)
第14番 長等山園城寺(ながらざんおんじょうじ)
第15番 新那智山観音寺(しんなちざんかんのんじ)
第16番 音羽山清水寺(おとわざんきよみずでら)
第17番 補陀洛山六波羅蜜寺(ふだらくさんろくはらみつじ)
第18番 紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)
第19番 霊ゆう山行願寺(れいゆうざんぎょうがんじ)
第20番 西山善峯寺(にしやまよしみねでら)
第21番 菩提山穴太寺(ぼだいさんあなおじ)
第22番 補陀洛山総持寺(ふだらくさんそうじじ)
第23番 応頂山勝尾寺(おうちょうざんかつおじ)
第24番 紫雲山中山寺(しうんざんなかやまでら)
第25番 御嶽山清水寺(みたけさんきよみずでら)
第26番 法華山一乗寺(ほっけさんいちじょうじ)
第27番 書写山円教寺(しょしゃざんえんきょうじ)
第28番 成相山成相寺(なりあいさんなりあいじ)
第29番 青葉山松尾寺(あおばさんまつのおじ)
第30番 巌金山宝厳寺(がんごんざんほうごんじ)
第31番 姨綺耶山長命寺(いきやさんちょうめいじ)
第32番 繖山観音正寺(きぬがさやまかんのんしょうじ)
第33番 谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)
西国三十三ヶ所巡礼は奈良時代の養老2年(西暦718年)徳道上人が臨死体験をして閻魔大王に会い観音信仰を広めるようにお告げを受けたことに始まると言われています。そして平安中期の花山帝(西暦968〜1008年)が19歳で出家して中興せられたと伝えられています。観音さまの真言は、「おん あろりきゃやー そわか」です。観音さまを七体にしたものを七観音といいます。聖観音(しょうかんのん)が元々の姿だったのですが密教が興ると変化(へんげ)観音として、十一面(じゅういちめん)・千手(せんじゅ)・如意輪(にょいりん)・准胝(じゅんてい)・馬頭(ばとう)・不空羂索(ふくうけんじゃく)の各観音が現れました。西国三十三観音の各霊場の観音さまはこの七観音やその合体形です。その中の千手観音は、十二支守り本尊の子年の守護尊です。胎蔵界では観音は蓮華院に祀られています。七観音の中准胝は女性形なので観音ではなく仏母とし、残りの六尊を以って六観音とします。六観音は六道の衆生を救います。聖観音は地獄を教化します。千手観音は餓鬼道を教化します。馬頭観音は畜生道を教化します。十一面観音は阿修羅道を教化します。不空羂索観音は人道を教化します(不空羂索観音の替わりに准胝観音を入れることがあります)。如意輪観音は天上(神々)を教化します。西国三十三観音と坂東三十三観音と秩父三十四観音を合わせて百観音と称します。百観音霊場のすべてを巡礼すると大変な功徳になります。最後になりましたが、太興院の西国三十三観音の立像の像高は約27cmで坐像の像高は約15cmです。観音菩薩の縁日は18日です。





弘法大師(蘇東二十一大師第十二番札所,山口弘法)


 

         観音堂の弘法大師             本堂の弘法大師


「解説」
弘法大師とは空海のことです。平安時代はじめ(八百年頃)の人で讃岐(香川)に生まれ、若い時に唐(中国)に留学して日本に中期大乗仏教の真言宗を伝えました。高野山に金剛峰寺を開き、京の都の東寺を嵯峨帝より賜り、故郷の讃岐に満濃池を造りました。また、書道の達人で「いろは歌」の作者とされ、62歳で高野山に寂しました。「十住心論」等多くの書物を著しています。弘法大師は、大変広く信仰を集め宗派を問わず、四国八十八ヶ所などの各地霊場で祭られています。
弘法大師以前の大乗仏教に伝わる密教は雑密(ぞうみつ)といって体系づけられていませんでした。弘法大師が招来した密教は純密(じゅんみつ)といって胎蔵界金剛界両会曼荼羅(まんだら)によってよく体系づけられた密教です。弘法大師の真言密教を東密(とうみつ)といい、一方、天台宗の密教を台密(たいみつ)といいます。両者の違いは空海が「大日経」・「金剛頂経」・「理趣経」といった中期大乗経典を所依としたのに対して、最澄は初期大乗経典である法華に密教を融合させようとしたことです。比叡山は法華・禅・浄土・密教の四宗兼学の道場で鎌倉時代にそれぞれ浄土宗・禅宗・日蓮宗が分派しましたが、真言宗は現在十八本山に分派しております。
尚、後期大乗仏教は日本には伝わらずチベット仏教として独自に展開してゆきます。ダライラマ法王はチベット仏教に於ける転生者です。
太興院の本堂にお祭りしている弘法大師像は、大正十三年に稲垣四季子様と小林新助様という方が施主となって上げたものです。像高は約32cmです。また、観音堂の厨子に納まっている弘法大師は、平成15年にご縁があって檀家さんのご親戚から太興院に寄付された尊像で、大正8年に新四国八十八番札所円通寺さまより賜ったものです。像高は約27cmです。太興院は、蘇東二十一大師霊場第十二番札所となっております。通称は町名をとって「山口弘法」です。空海の密号は、南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)です。諸願が叶えられます。弘法大師の縁日は21日です。





釈迦如来


  

      釈迦如来         誕生仏            涅槃図像


「解説」
お釈迦さまは仏教の始祖で、禅宗の開祖でもあります。今から二千五百年の昔、ネパールの釈迦族の王子さまとして生まれました。伝説では、お釈迦さまが生まれた時、空から甘い雨が降ったそうです。そこで花祭りの時には甘茶を誕生仏にかけるようになりました。また、お釈迦さまが生まれてすぐ七歩歩いて天地を指差し「私は全ての生き物に幸せになる道を説く」と言われたといいます。花祭りはわが国では推古天皇十四年(西暦606年)に元興寺で始まりました。お釈迦さまは16歳で妻を娶り一子らごらを設けますが、生老病死の問題を解決すべく29歳のときに出家して二人の仙人を訪ね次いで6年間の苦行を重ねて35歳のときに菩提樹下に赴きます。七日間坐り続け明けの明星が輝く朝に大地とあらゆる生き物がみな悟りの中にあることを覚って仏になられます。仏陀になられてからは45年間印度各地で布教を行い舎利弗(しゃりほつ)・目連(もくれん)・迦葉(かしょう)という優れた阿羅漢を輩出します。齢80で応身仏(おうじんぶつ:大衆を救うためにこの世に現われた肉体を持った仏)としての役目を終えて法身(ほっしん:如来の本体:毘盧遮那びるしゃな:大日)そのものに入寂されました。
涅槃図によると、お釈迦さまが入滅なされた時、四辺の沙羅双樹8本の中4本が悲しみのあまり白い花を咲かせました。お釈迦さまのご遺体を荼毘に付そうとしましたがどうしても火が付きませんでした。実はお釈迦さまは迦葉尊者が到着するのを待っていて迦葉尊者がその場に到着して初めて荼毘に府されました。お舎利は皆が八つに分けて十か所に塔を建てて祭りました。これが卒塔婆の始まりです。
お釈迦さまは金剛界五仏の不空成就如来と同体とされます。また、胎蔵では釈迦院に祀られます。この釈迦院には如来の三十二相の一つの頭頂部の特徴が仏頂尊として祀られます。仏頂尊は宿曜の障りを取り除きます。太興院の釈迦如来像は、明治20年に八世保順和尚が上げたもので、立像の像高は約59cmあります。真言は「のうまく さんまんだ ぼだなん ばく」です。悪魔を祓い、煩悩を消し、息災と安らぎをもたらしてくださる仏さまです。縁日は30日です。





両祖

 

          蛍山禅師           道元禅師


「解説」
曹洞宗寺院では道元禅師(どうげんぜんじ)と蛍山禅師(けいざんぜんじ)を両祖としてお祀りします。曹洞宗は、鎌倉時代に初祖道元禅師が開いた福井の永平寺と、四祖蛍山禅師が住持をした総持寺(元々は奈良時代に行基菩薩が開き平安時代に真言律宗であった寺を蛍山禅師が譲り受けて曹洞宗に改宗したもので石川県輪島市に在りましたが火災に遭い明治時代に神奈川県横浜市に移りました。)を両大本山としています。大本山を統括する総本山は置いていません。曹洞宗は禅宗です。禅宗には他に鎌倉時代に栄西禅師が開いた臨済宗と、江戸時代に中国から来た隠元禅師が開いた黄檗宗があります。曹洞宗は1万5千の寺院を末寺とする伝統仏教教団です。
道元禅師は、正治二年(西暦1200年)、京に生まれ父は久我家、母は藤原家の出です。幼くして両親を相次いで失い13歳で比叡山(天台宗)に出家します。24歳のとき宋(中国)に渡って各地で修行を積み、天童山景徳寺の如浄禅師の法を継ぎ28歳で帰朝し日本に曹洞禅を伝え、越前(福井)に永平寺を開き、54歳のとき病のため京で亡くなりました。著書に「正法眼蔵」などがあります。
蛍山禅師は、文永五年(西暦1268年)、越前(福井)に生まれ13歳のとき永平寺二世懐奘禅師(えじょうぜんじ)の許で得度し、次いで永平寺三世、加賀(石川)大乗寺禅宗開山義介禅師(ぎかいぜんじ)から印可(いんが)を受け、道元禅師の法衣を授けられ、後醍醐帝から額を賜り総持寺を曹洞宗の道場にしました。多くの優れたお弟子さんに恵まれ曹洞宗発展の礎となられ58歳で亡くなりました。著書に「伝光録」などがあります。
太興院の両祖像は、明治二十年に八代目の住職の祖父江保順和尚が道元禅師を上げ、次いで昭和五年に十二代目の住職の坪内鉄城和尚が蛍山禅師を上げています。像高は約42cmです。





大権・達磨

 


       達磨大師              大権修理菩薩


「解説」
達磨大師(だるまだいし)は中国に於ける禅宗の開祖です。達磨さんは本、菩提多羅(ぼだいたら)と言い、南印度にあった香至国(こうしこく)という小国の第三王子です。出家して般若多羅尊者(はんにゃたらそんじゃ)の弟子になり、禅宗の二十八祖と成りました。中国に渡り梁の武帝と問答して、揚子江を渡って北にある嵩山(すうざん)の少林寺(しょうりんじ)に至ります。そこで9年間もの間ひたすら禅を修めました。四人のお弟子さんに恵まれ、そのうちの慧可(えか)に禅の法灯を伝え、その後お亡くなりになり熊耳山(ゆうじさん)に葬られますが、伝説では西域を独り歩いて印度に帰っていかれたといいます。
一方、招宝七郎大権修理菩薩(じょうほうしちろうだいげんしゅりぼさつ)は元、中国の神さまで、阿育王山(あいおうざん)の護法神とも招宝山(じょうほうざん)の神とも七郎峯(しちろうほう)の神とも伝えられ、道元禅師が帰朝するときに随身して日本に渡り正法を護り曹洞宗寺院の土地を守る神さまとして祀られるようになりました。お寺では季節が変わるごとに招宝七郎大権修理菩薩に修行の無事を祈ります。
曹洞宗寺院ではこの大権・達磨を対で土地堂と祖堂に祀ります。太興院の大権菩薩・達磨大師像は、明治二十年に八代目住職祖父江保順和尚が上げたものです。立像で、像高は約70cmあります。





秋葉三尺坊権現




        秋葉権現


「解説」
秋葉山(あきばさん。地元ではあきやさんといいます。)とは遠州(静岡県西部地域)にある霊山で、火伏せ(火事を防ぐ)の聖地です。秋葉山の頂きの秋葉神社には火産神(ほずみのかみ)が祀られ、中腹の秋葉寺(しゅうようじ)には秋葉三尺坊大権現(あきばさんじゃくぼうだいごんげん)が祀られています。江戸時代までは神仏混合でしたので、神社と寺は分かれていませんでした。三尺坊さまは、迦楼羅(かるら)という烏天狗の山伏のお姿で、火を忽ち消す神通力を持ち、昔から篤く信仰されています。秋葉寺は元々修験の寺でしたが、江戸時代に寺社奉行の裁定により曹洞宗寺院となり、袋井の可睡斎(かすいさい)の末寺となりました。私事ではありますが、太興院住職は修行時代にこの秋葉寺で法戦式(ほっせんしき)を挙げた法縁があります。太興院にも三尺坊さまのご神体があります。私の赴任当初、地主神(とこぬしのかみ)に替えて境内の北西の外宮に祀ってありましたが修繕し、秋葉三尺坊権現の本地仏は観音さまですので、今は観音堂内に祀っています。秋葉三尺坊権現は白い狐の上に立っています。眷属は七十五の龍や狐などとされます。像高約10cmの小像で、古いものではありません。真言は「おん ぴらぴら けんぴら けんのう そわか」です。
尚、こちらは秘仏の為、一般公開しておりません。





地蔵菩薩

   

 

       金堂地蔵           山門地蔵


「解説」
地蔵菩薩はお釈迦さまが入滅なされて弥勒仏が地上に降誕なされるまでの非常に長い間、天上・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道の衆生を救われるありがたい仏さまです。よくお墓には無縁の仏さんのために六地蔵尊が祀ってあります。
また、里と里の境の路傍にもよくお地蔵さんを見かけます。これは道祖神と習合したもので疫病神が進入しないように郷を守っているのです。
胎蔵では地蔵院が設けられています。金剛界では南の宝生如来の眷属としてそのすぐ西に祀られている金剛幢菩薩が地蔵と同体です。
六道能化地蔵願王菩薩は子供の守護仏ともされ水子地蔵や子安地蔵の信仰も行なわれております。地蔵菩薩の縁日は24日です。
地蔵菩薩は黄泉の大王で中陰五七日の裁定を下す閻魔大王の本地仏でもあります。
また極楽浄土の教主である阿弥陀仏と地獄の衆生を救う地蔵菩薩は対称的な存在とも見做されます。
また大空を体と為す智慧の虚空蔵菩薩と大地(床世即ち常世)を体と為す慈悲の地蔵菩薩とは対称的な存在であると見做されます。
太興院の金堂(俗称観音堂)の地蔵立像は彩色で錫杖を持っています。
山門の脇の祠にも地蔵菩薩の石仏があります。昭和四十一年に当山の十二世坪内鉄城和尚の代のとき、門前の道の区画整理があり山門を建立した以前から現在地にあったといいます。宝珠を懐いた立像で像高は50cmあまりです。真言は、「おん かーかーかみ さんまーえい そわか」です。十二代住職の娘様のお話では、この地蔵菩薩は御利益があるとのことです。





■地主神



              地主神


「解説」
太興院の乾方(北西)には小高く土が盛った所がありその上に小さな祠(ほこら)があり、地主神(とこぬしのかみ・じぬしがみ)を祀っています。
地主神とは何かというと土地を神格化したものです。地主神は土地を守るという大切な神様であるにもかかわらず一般的に固有の名前がなく、いつの間にか名の通った神様にとって替わられる場合が多くあります。
地主神への信仰は日本に古くからあり、自分が生活する土地の神様は家屋敷にとっても農業などの生業にとっても地縁や血縁にとっても大事なものだとされたわけです。地主神(とこぬしのかみ)は床世・常世(とこよ)につながることから先祖ともかかわりがあるとも考えられています。「死んだら土に帰る」ということばは今も活きています。
地相にも依りますが地主神を乾方(北西)に祀るわけは、穴風(あなし)と言って戌亥(北西)の冬の寒風を昔は特に忌み穴風が吹く北西を凶方としたのです。凶方である北西に地主神を祀って、穴風からの災いを防ごうとしたようです。今では乾方を吉方とし艮(うしとら)を鬼門として忌むようですが、昔は北西を凶方とし南東を吉方としたようです。尾張地方にある太興院も冬は北西から伊吹颪(いぶきおろし)が吹くのでたいそう寒いです。地主神は、穴風からお寺を守ってくれるありがたい神様です。




■観音(接賓)



            観音(接賓)


「解説」
太興院の接賓(お寺の受付、一般家庭では玄関)には観音を祀っています。真ん中の大きな魚藍観音の寄付者はお庫裏の亡き父親です。脇侍は白衣観音です。魚藍観音や白衣観音や楊柳観音は江戸時代に著された「仏像図い」という本に出てくる「三十三観音」で、形からいうと一面二臂の聖観音の部類に属します。この三十三観音は江戸時代に庶民に信仰され広まったもので経典や義軌によっておりません。
1、楊柳(ようりゅう)観音 
2、龍頭(りゅうず)観音 
3、持経(じきょう)観音 
4、円光(えんこう)観音 
5、遊戯(ゆげ)観音 
6、白衣(びゃくえ)観音 
7、蓮臥(れんが)観音 
8、滝見(たきみ)観音 
9、施薬(せやく)観音 
10、魚藍(ぎょらん)観音 
11、徳王(とくおう)観音 
12、水月(すいげつ)観音 
13、一葉(いちよう)観音 
14、青頸(あおくび)観音 
15、威徳(いとく)観音 
16、延命(えんめい)観音 
17、衆宝(しゅほう)観音 
18、岩戸(いわど)観音 
19、能静(のうじょう)観音
20、阿耨(あのく)観音 
21、阿摩堤(あまだい)観音 
22、葉衣(ようえ)観音 
23、瑠璃(るり)観音 
24、多羅尊(たらそん)観音 
25、蛤蜊(こうり)観音 
26、六時(ろくじ)観音 
27、普悲(ふひ)観音 
28、馬郎婦(めろうふ)観音
29、合掌(がっしょう)観音 
30、一如(いちにょ)観音 
31、不二(ふに)観音 
32、持蓮(じれん)観音 
33、灑水(しゃすい)観音です。
これらは印度や大陸や日本の民間で行なわれたものです。
この三十三観音という数は観音経(元々独立した経典が法華経の一品として組み込まれたもの)で観世音菩薩(観音)が衆生を救うのに三十三身に変化して現れることに因んでおります。




■跋陀婆羅尊者(浴室)



           跋陀婆羅尊者(浴室)

「解説」
太興院では平成26年に禅宗寺院の七堂伽藍の一つである浴室の改装工事完了に併せて欠尊であった跋陀婆羅尊者(ばつだばらそんじゃ)を左の写真のようにお祀りいたしました。跋陀婆羅尊者は禅宗寺院の七堂伽藍の一つである浴室のご本尊さまです。その昔、威音王(いおんおうぶつ:法華経の第七巻の常不軽菩薩品第二十に現われる仏さま)の時に出家なされ十六開士と倶に入浴した際に水を縁に無所有の境地を得た賢聖(げんじょう)なので浴室に奉安します。今の世の中に現れる仏さまのお一人で、梵語はバドラパーラといいます。跋陀婆羅(ばつだばら)は音写で、善守・賢護と訳します。禅宗では入浴して身を浄めることは心を浄めることであり大切な修行とされています。





■烏枢沙摩明王(東司)



         烏枢沙摩明王(東司)


「解説」
太興院では平成26年に禅宗寺院の七堂伽藍の一つで欠尊であった東司(雪隠)の本尊烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を左の写真のようにお祀りいたしました。烏枢沙摩明王はあらゆる不浄を祓い清める仏さまです。また、お産、木精、悪鬼などに効能があるとされます。烏枢沙摩明王は別名を火頭金剛といいます。後背の火焔は淫欲を転化して智慧の炎となすことを表しているのです。五大明王は中央の不動明王(本地仏は大日如来)、東の降三世明王(本地仏は阿しゅく如来)、南の軍荼利明王(本地仏は宝生如来)、西の大威徳明王(本地仏は阿弥陀如来)、北の金剛夜叉明王(本地仏は不空成就如来)ですが、金剛夜叉明王に替えて烏枢沙摩明王をお祀りすることもあります。ご真言は「おん くろだのう うん じゃく そわか」です。





■韋駄天



              韋駄天


「解説」
太興院の庫裏には「韋駄天(いだてん)」が祀られています。韋駄天は元々印度由来の神でシヴァ神(大自在天)の子どもです。梵名は「スカンダ」といい、「跳ぶ者」を意味するといわれます。仏教の守護神として取り入れられてからは、四天王の南の守護神である増長天の眷属とされます。禅宗寺院では七堂伽藍の庫院を守る神さまとして祀られます。宝棒を横に捧げ、二神を従えております。総丈は大体24CMで像高は18CMです。鬼に盗まれたお釈迦さまのお舎利を韋駄天走りで取り返したことから「盗難除け」などに効験があるとされます。ご真言は「おん いだていた もこていた そわか」又は「おん けんだや そわか」です。





■大黒天



               大黒天


「解説」
太興院の典座(台所)には大黒天が祀られています。大黒天も印度由来の神さまで元々シヴァ神(大自在天)の戦闘形で梵名は「マハー(大きい)・カーラ(黒または時)」といい、「大黒天」と訳します。大黒天は仏教に取り入れられてからは護法神として福徳を司る神となり、大陸を経て日本に入ってくると「大国尊」と習合し、饗(うけ)の神としての性格が強くなりました。穀物神として俵に載り商売の神として打ち出の小槌を持ちます。恵比寿(蛭子)と対で祀られることが多いのは大黒天が五穀豊穣を恵比寿が大漁を叶えてくれるからです。大黒天には毘沙門天・弁財天と合体した三面大黒天もあります。大黒天は七福神(大黒・恵比寿・毘沙門・弁天・布袋・福禄寿・寿老人)の一つで民間では正月二日に宝船の絵を枕に敷き初夢を期します。ご真言は「おん まか きゃらやー そわか」です。福禄が得られます。





■掛け軸(書院)




        掛け軸(書院)


「解説」
書院とは、普段住職などが私室として使っていますが、正式なお客様が来た時はここを応接間や客室にします。また講義室にしたり会議室にしたり茶を飲んだりします。行事の時はここが役僧様の控室になります。ですからあまりものを置けません。半分私用半分公用といった感じです。
和室には上下があり、書院の上には掛け軸を吊るします。そして前に香炉を置いて客人がある時には香を焚きます。或いは花瓶が置いてあることもあります。
左では祖師を祀っているので三具足にしてありますが、本来燭は要りませんし火事に用心です。
季節のものを掛ける時は少し先の季節のものを掛けるのだそうです。
書には草書体なのか何と書いてあるのかよく読めないものも多々あります。掛け軸の箱にはその掛け軸の情報が残されていることがありますから大切にしまっておかねばなりません。





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