太興院

太興院仏事のならわし



龍雲山太興禅院公式サイト

          

2023年12月31日現在



■太興院仏事のならわし
■葬儀




       男性用振り分け数珠と片手念珠




             女性用本連数珠




御香典




袱紗(ふくさ)

「概要」
太興院では仏事に関して、よくあるご質問とその答えを「仏事のならわし」というタイトルでまとめました。どうぞ、参考にしてください。ただし、ここに示した答えはあくまでも太興院住職の見解であり、同じ宗派でもご住職によって考えが違ってきます。また地方によって習慣が違うものですし、ましてや宗派が違うと習慣は大いに異なってきます。その点、ご了承ください。具体的なことは菩提寺様やその土地の長老にお尋ねになるのがよろしいかと思います。
「お葬式」
お葬式ですが、枕経と通夜と葬儀と火葬場と初七日を行ないます。そのしきたりはいろいろあります。この地方では灰葬を行ってお寺さんは火葬場に同行しないのが一般的です。
「新仏が出たら」
先ず、お亡くなりになられたら、ご遺体を家に安置します。生前使っていた布団に寝かせ北枕にして、末期の水を行います。末期の水(まつごのみず:死に水)は家族や親戚が揃ったら行ないます。箸に脱脂綿を縛り付けて(綿棒でも可)血縁の近い方から順次にご遺体の唇に水を濡らします。お釈迦さまの臨終の時に、弟子の阿難尊者が水を差し上げた故事によります。
湯かんをします。湯かんとはご遺体をぬるま湯で拭いて浄めることです。湯かんに使うぬるま湯は水に熱湯を加える逆さ水です。それから死に化粧を施します。髪を整えたり爪を切ったりします。男性は髭を剃り、女性はお化粧します。
「死に装束」
そして生前巡礼に使った装束を左前に着せます。紐の結び目は縦結び)にします。手甲・脚絆があればこれらもちぐはぐに着け、足袋も左右逆に履かせます。さんや袋には紙で作った六文銭(ろくもんせん)と枕飯とお団子を入れご遺体の肩から掛けて持たせます。ご遺体の額に三角頭巾を着けます。これを天冠(てんがん)※と言います。
※この天冠は正式には葬儀告別式の際、ご遺体だけでなく親族も内諷経である葬儀には天冠を付け野辺送りである告別式に入って天冠を外すのですが最近は始めから付けないことが多くなりました。
新仏の両手を胸の前で組ませま数珠を掛けます。石数珠で火葬後割れていなければその数珠で再び数珠をこしらえ形見にすると縁起が良いとします。掛け布団は逆さ布団にして上下逆さまにします。そして守り刀を布団の上に置きますがこれは神道或いは武家の由来なのでなくても構いません。お顔は出しっ放しにせず顔かけ(白い布や大き目の白いハンカチ)で覆います。弔問客は勝手に願かけを取って死に顔を拝んではなりません。お顔を拝見したい場合、遺族に申し出て遺族が願かけを取り拝ませます。尚、故人や遺族の意向により断られることもあります。
「逆さ屏風・逆さ簾」
屏風がある家はご遺体を安置しているお部屋に屏風を天地逆さまにして逆さ屏風にします。
また簾のある家は玄関に簾を逆さにして吊るし「忌中」と書いた紙を貼って「逆さ簾」にしますが、今では逆さ簾にせず、玄関に「忌中」の張り紙だけをすることが多くなりました。但し、ご近所付き合いのない家族葬などでは敢えて貼り出さないこともあります。
「枕飾り」
次に枕飾りをします。ご遺体の枕元に経机を置き、そこに枕飯枕団子お水をお供えします。枕飯は生前使っていた茶わんに炊き立ての白米をてんこ盛りにして、生前使っていたお箸を立てます。枕団子は上新粉でお団子を作って皿に盛ってお供えします。これはお釈迦さまが最後に何を差し出しても食べられなかったので、亡くなられてから食べ物を丸めてお供えした故事によります。数は六地蔵に因んで六つにします。お水は生前使っていた湯飲み茶わんに容れてお供えします。
「枕経」
訃報ふほう・訃音ふいんを聞いてすぐお伺いする時は平服で参ります。礼服を着て行ってはいけません。もちろん遺族も平服で迎え礼服を着てはなりません。亡くなるのを待っていましたという意味にとられるからです。近い親戚やご近所の方々が揃われてからご住職を呼んで枕経をお勤めしてもらいます。その際の三具足は、白い蝋燭・一本線香・一本花(一本樒しきみ)で、お焼香を用意します。枕経が終ったら葬儀の打合せをします。尚、状況により電話で葬儀の打合せを済ませてから枕経と通夜を一緒に行なうこともあります。
ご遺体を「納棺」したら御朱印帳を一枚一枚バラバラにして棺の中に入れます。もしも笠や杖があればこれらも入れますが杖は柄を下に先を上にして逆さまにします。
「仏壇・神棚」
仏さまが出た場合、故人は忌明けまでは中陰というこの世とあの世の中間的な状態にあるとして、あの世である仏壇の中に入れません。ですから仏壇は閉めます。仏壇のお仏華は下げます。真宗さんですと、亡くなったらすぐに往生するというご宗旨からお仏壇を開けておきます。神棚は忌明けまで神棚に半紙を垂らして不浄除けにしておきます。当該ご寺院さまにお尋ねください。
「お立ち合い」
町内のお寺さまに葬儀のお立ち会いをお願いしに行く時は葬家の使者は独りではなく二人で行きます。
「喪服」
喪主さまとそのお連れ合いは本来白の和服姿でしたが今では親族や会葬者共々黒い礼服が多くなりました。喪服を着るのは通夜・葬儀告別式・火葬場・初七日・忌明け(四十九日)・初盆・一周忌・三回忌です。お子さんは制服があれば制服を着ます。三回忌を以って喪が明けるので七回忌以降は喪服を着ませんが「平服で」と打ち合わせておいた方が無難です。
「数珠」
男女共に自分の家の宗派のお数珠をお使いになるか、或いは振り分け数珠を用います。振り分け数珠とは真言宗の本数珠のことでこれは各宗派共通に使うことができます。但し日蓮宗を除きます。在家の男性用は1尺2寸108珠です。材質や色は随意です。女性用の本数珠は八寸108珠ですが、珠が小さくなるので写真のもののように88珠や72珠のものもあります。水晶が好まれ房は白となります。在家の男性の場合、本数珠よりも片手数珠を用いることが好まれます。女性の場合、法事の時は片手数珠で、房は紫などが多いようです。
「香典 お淋し見舞」
仏事に呼ばれた場合、喪主に渡す香典は、お葬式の時は不祝儀袋に「御香典」や「御霊前」(真宗の場合は亡くなってすぐ極楽に往生するので初めから「御仏前」)と書いて包みます。悲しみが早く消え去るようにという配慮から字は薄い墨書きにします。香典は、お通夜のときかお葬儀のときに受付に渡し記帳します。お通夜とお葬儀の二回とも御香典を出すのは不幸が重なる意味合いから避けます。お葬式に行くつもりでも必ず行けるとは限らないのでお通夜の時に渡す方がよいでしょう。お通夜の後の「しのぎ・お非時」の差し入れの意味でお通夜の時に「お淋し見舞」を「御香典」とは別に包む風習があればそうします。「しのぎ・お非時」は葬家の振る舞いですからお誘いがあれば断るのは良くありませんが葬家はそれが終わらないと食事ができないのでその辺を察して早々に引きあげましょう。金額は親戚と友人知人隣人では違いますし土地柄にもよりますから周りの人とよく相談してください。お札を裏にして入れるのはのし袋の裏に金額を書くのでそれと照合し易くする為です。また、折り目の無いピン札は「まるで用意していたようだ」との裏面交流から嫌います。一度折ってから伸ばして使った形跡を入れます。家族は香典を包む必要はありません。尚、最近、香典を受け取らない事や香典返しをその場で返す事もありますので葬家の意向に従ってください。
「袱紗」
現在、袱紗(ふくさ)にはいろんな色がありますが、色には使い分けがあります。紫の袱紗は慶弔ともに使えます。赤系統の色の袱紗は結婚式などのお祝い事のみです。青系統(緑も青です)の色の袱紗は弔事のみです。ですから赤と青を混ぜた色である紫は慶弔両方に使えますから万能です。香典やお淋し見舞、あるいは結婚式などのお祝いはのし袋のまま持っていかず袱紗に包んで持っていきます。
「お非時・しのぎ」
通夜の後の会葬者に振舞う食事のことを「お非時」とか「しのぎ」とかいいます。夜も遅くなりお腹が空いたのをしのぐからです。
「ご遺体だけにしない」
お亡くなりになってから葬儀が終わるまでご遺体には必ず誰かが付き添いご遺体だけにしておくことがあってはなりません。葬儀屋さんが一時霊安室に預かることはありますが、ご遺体を放置しておいてはいけません。家内から昔近所でご遺体だけを家に残して皆帰ってしまったら「なんて薄情なんだ」と親族の所に化けて出たという話を聞いたことがあります。
「出棺」
家から斎場へ出棺の際、また、斎場から火葬場に出棺の際、血縁の男子が棺を霊柩車まで運ぶのは、お釈迦さまが父親である浄飯王の葬儀の際、棺を弟や子供や従弟と共にかついだ故事からです。また地域によっては、斎場から火葬場に出棺の際、棺を運ぶ血縁の男子が天冠を額に付けることがあります。
「裸足」
檀家さんがお寺さんのお葬式に行った時、跡取りのお弟子さん(息子さん)は裸足です。これはお釈迦さまが父親である浄飯王の葬儀の際裸足であったことからベッスを履きません。在家の葬儀でも和装の場合、喪主さまが裸足であることがあります。
「お霊供膳」
地域によっては葬儀告別式の時に故人にお霊供膳を準備することがあります。
「四華花」
葬儀の四華花(しかばな)はお釈迦さまが亡くなられた時、4対8本の沙羅双樹の中4本が悲しみのあまり白く変じた故事によります。白い紙を細かく切って作ったものを四本用いますが最近は二本に略すことがあります。地方によっては四華花が葬列を先導したりお墓に立てたりします。四華花がないと成仏できないとも言われます。
「樒」
枕経や通夜や葬儀の時の三具足の華は樒(しきみ)を用います。樒は亡骸を守り、香をお供えしたことになるからだといいます。 葬儀に引き続き灰葬勤行をする時は樒から四華花に替えます。或いは初めから両方お供えしておきます。
「お線香・お焼香」
お線香は普段は3本たてますが、葬儀のときは何本も煙が立つと故人が迷うといって忌み、迎え線香は立てずに1本線香にします。お焼香は、お導師さまだけは2回、お導師さま以外は1回です。
「花入れ」
葬儀告別式が終わって出棺する前に棺を開けて遺族が花入れをします。折り鶴花も一緒に棺に納めます。この時はなるべく遺族水入らずにしてあげるという配慮が必要です。血脈がある場合、棺桶に入れ火葬する地方と一緒に埋骨してお墓に入れる地方がありますのでご住職にお尋ねください。
「故人のお茶碗と箸」
葬儀告別式が終わって出棺する時、故人が生前使っていたお茶碗を割り、箸を折ります。この世での食事の終わりを意味します。何気なく茶碗が真っ二つに割れたり箸がボキッと折れたりするのを縁起が悪いと感じるのはその為です。
「火葬」
火葬場には遺族だけで行きます。一般の方は葬儀告別式が終わり出棺を見送ったら帰ります。火葬場で勤行がある場合ご住職をタクシーで送迎します。火葬場の運営方針により棺を全く開けないこともあり、棺の窓だけ開けてお顔だけ拝ませることもあり、棺を一旦開けて尺白木位牌を入れることもあります。しかし時間の都合でゆっくり故人と対面できませんので「花入れ」の時によくお別れをしてください。火葬は大体90分くらいかかります。その間、休憩室で休みます。出立ち(でだち)は本来土葬に行く前の腹ごしらえでしたが、現在はこの休憩時間を利用して出立ちを頂くことが多いようです。
「箸渡し」
火葬が終わり拾骨時、昔はお骨を順次に箸渡しして骨壺に入れました。これはこの世からあの世に渡すとの意味です。食べ物を箸渡しすると縁起が悪いとして注意されるのはその為です。今では箸を二人で持ち三途の川を渡りやすくする橋を型作ります。
「道を変える」
火葬場から帰る時は来た道を変えます。これは霊がついてこないようにという恐れからです。葬儀に於いては一方では故人に愛着を示し一方では死を恐れます。両方とも人間の極自然な感情です。
「葬儀の煮炊き」
葬儀の煮炊きを葬家で行なわず近所が代行するのは仏さまを出した家の竈(かまど)が一時「死」によって穢されているとするからです。穢れは気枯れで生命力が失われることです。竈は三宝荒神が宿る所であり神聖視されていました。昔は巫女さんが月末に竈祓いをしてお清めをしました。
「振り塩」
お葬式が終わって家に入る前に振り塩をするのは死の穢れを祓う行為です。真宗さんは極楽に往生することを忌まないので振り塩は行ないません。
「土葬のなごり」
禅宗では地域によって午前中に火葬を済ませ予めお骨にしておき出立ち(野辺送りの前の腹ごしらえ)をしてから午後、葬儀告別式に引き続きお墓に行って埋骨を済ましそれから初七日、精進落としにすることがあります。これは昔の土葬のなごりです。
「初七日」
火葬場から帰ってきたら斎場に戻って初七日のお勤めがあります。初七日は年忌と同等の法要なので故人にお霊供膳をそなえます。初七日はだいたい親戚だけで行ないます。
「精進落とし」
家族が亡くなったら精進落としまで肉魚酒などを慎み精進します。お通夜や出立ちの料理は精進ものにします。初七日が終ったら精進落としの食事をします。精進落としなので肉魚酒が付きます。多くのご住職が精進落としの座に着かず帰られるのはわざわざ精進落としと銘打った席には着きづらいからです。年忌などの後の会食は精進落としとは言わないのでご一緒するご住職もおられます。
初七日の香典というものを別に包むことはありません。香典を渡すのは一度だけですのでその中に精進落としの食事代や引出物代を多めに包みます。淋し見舞の風習が無ければ通夜のお非時代もついでに包みます。だから親戚は一般の会葬者よりも多めに香典を包むのです。尚、家族は自分の家のことなので香典を包みません。
「中陰祀り」
自宅以外の場所で初七日・精進落としを行なった場合、自宅に帰ってから中陰祭壇を組み立て白木の位牌・お骨・写真を祀ります。祭壇には忌明けまでは白い菊を七輪用います。親戚が贈ってくれた花籠は脇にお供えします。
「お礼参り」
葬儀が終わった翌日お布施と供物を持って菩提寺にお礼参りに行きます。菩提寺さまと忌明けや七日経などの今後の打合せをします。菩提寺様が遠方でお礼参りを省略する時は初七日が終ったらお布施を渡します。お布施は袱紗から出します。精進落としの時に今後の打合せをします。精進落としが終ったら供物とお花を渡します。お布施(お導師・役僧・お立会い)のことは当該寺院のご住職にお尋ねください。
「お立ち会いのお礼」
お立ち会いの町内のご寺さまのお礼は葬儀翌日喪主が持ってゆきます。お布施は袱紗から出します。
「忌中の生活」
忌中の間、用事がない限りなるべく家から出ないようにします。遊びに行ったり飲みに行ったりという行為は控え慎みましょう。また忌中は、神社仏閣に行くことはできません。穢れ(気枯れ)を持ち込まない為です。忌中に晴れ着を着ることはできないので結婚式に出席するのも本来よくありません。しかし舞台に穴をあけることができない立場でどうしても出席するならば晴れ着は式場で借りるなどしてうまく対応しましょう。学業に関する事柄に浄不浄はありませんので学校行事に出席することは構いません。




■中陰から百か日まで


「概要」
初七日が終ったら、二七日・三七日・四七日・五七日・六七日・七七日の忌明け・百か日、位牌のお精入れ・埋骨を行ないます。また仏壇開きやお墓開きを
することもあります。
「中陰経(七日経)」
二七日から六七日までは小さな法会で家族だけで行ないます。服装は家族ばかりなので平服でよいのです。
「享年・行年」
中陰の白木位牌は仮の位牌で四十九日の忌明け以降は黒塗りや金箔の本位牌にします。中陰中に菩提寺さまに相談して本位牌を手配し忌明け法要に
間に合うようにします。忌明け法要の時に一緒に埋骨をするのであれば位牌同様墓誌に戒名、没年月日(例:平成二十九年二月四日没)、俗名、享年を彫
ってもらいます。百か日と一緒に埋骨をするのであれば百か日までに墓誌に戒名、没年月日、俗名、享年を彫ってもらいます。

享年とは年をうけることです。行年とは経過した年齢のことです。享年も行年も同じ意味でどちらを使っても差し支えありませんが、享年も行年も基本的に
満年齢ではなく数え年にすることになっています。

今年を2018年とすれば1968年生まれの人は皆数え51歳となります。数え年は生まれたら1歳で以降元旦を迎える毎に歳をとるのでそうなります。
「四十九日の忌明け」
初七日と七七日(四十九日)の忌明けは年忌法要と同じく大きな法要ですから親戚を呼びます。四十九日は死亡してから三ケ月にまたがって行なうのはよ
くなく二ケ月目に繰り上げて行ないます。それは忌明けを三ケ月目に行なうと翌四ケ月目に百ケ日の法要があって間がないからです。四十九日の忌明け
には死者の苦しみを抜くと言われる四十九餅(しじゅうくもち)をお供えし後で出席者に分けますが砂糖やパンなどで代用することがあります。

「位牌のお精入れ」
白木の位牌は中陰の間の仮の位牌です。四十九日までに本位牌を認め、忌明けの法事の際、本位牌のお精入れをしますので硯・墨・筆を用意しますが筆
ペンで済ませることもあります。ご住職さまの指示に従ってください。

「仏壇」
忌明け法事の時に枕経の時から閉めていた仏壇を開けます。お仏華・閼伽(水)・お仏飯・お供物などをお供えします。
「埋骨」・「お墓開き」
忌明けの法事が終ったらお墓に行って埋骨します。予め墓標に戒名・没年月日・俗名・享年を彫っておきます。忌明けの時は位牌のお精入れがありお墓ま
で行って埋骨すると長時間に及ぶ為、百か日の時に行なうこともあります。それまでの間お骨は祭壇にそのままにしておきますが、菩提寺さまに一時預か
ってもらうこともあります。

「仏壇開き」
本来、生前から仏壇を設けて仏・祖師・ご先祖さまを祀って信仰し心の拠り所とすべきなのですが、新屋さんの場合、新仏が出て初めて仏壇を設け、四十
九日の忌明けの時や百ケ日の時や一周忌の時や三回忌の時に仏壇開きを併修することが多いものです。しかし忌が明けても三回忌までは喪なので慶弔
が一緒になるのはしっくりしません。慶と弔とでは弔の方が優先されますので、祝儀袋に「開扉祝い」と書いて持っていくのではなく真っ白い袋に「お供え」と
書き金を入れて持ってゆくか香典を多めに包まれる方がよいでしょう。七回忌以降に仏壇を洗いに出したり買い替えたりして仏壇開きを併修する場合はも
はや喪ではないので香典とは別に祝儀袋に「開扉祝い」と書いてお祝い金を入れて持ってゆきます。

「お墓開き」
本来、生前に寿陵墓を設けて空墓であっても参り墓としてご先祖さまを祀っておくべきなのですが、新屋さんの場合、新仏が出て初めてお墓を設け、四十九
日の忌明けの時や百ケ日の時や一周忌の時・三回忌の時にお墓開きを併修することが多いものです。しかし忌が明けても三回忌までは喪なので慶弔が
一緒になるのはしっくりしません。慶と弔とでは弔の方が優先されますので、祝儀袋に「寿塔祝い」と書いて持っていくのではなく真っ白い袋に「お供え」と書
き金を入れて持ってゆくか香典を多めに包まれる方がよいでしょう。三回忌までは喪なので「お墓開き」に晴れの鏡餅をお供えするのはいかがなものかと思
います。七回忌以降にお墓を磨き直したり建て直したりしてお墓開きを併修する場合はもはや喪ではないので香典とは別に祝儀袋に「開扉祝い」と書いて
お祝い金を入れて持ってゆきます。石塔に巻いていたさらしは妊婦さんの腹帯にすると縁起がよいということで、予定のある女性のために持ち帰ります。お
墓開きの時には晴れですので鏡餅をお供えしましょう。

「御仏前」
香典は、忌明け(禅宗などは四十九日・真宗などは三十五日)からは「御仏前」と書いて祭主に渡します。「御香典」でも構いません。
「神棚」
四十九日法要が済んだら神棚の半紙を外します。写真のリボンは外して仏間に飾ります。忌明け以降は仏壇にお仏華(色花)を上げます。
「百か日」
百か日は、本来親戚中を呼んで行ないますが、四十九日から間もないことから遠くの親戚は遠慮することが多いようです。家族と近くに住む親せきだけで
行ないますが喪中ですから礼服にします。お餅は晴れのめでたい時のごちそうですので供えません。四十九日で埋骨しなかった時には百か日でお骨納め
するとよいでしょう。食事は適宜に行ないます。

「お霊膳」
忌明け法要と百か日法要には「お霊膳」をお供えします。中陰経の時もできればお供えします。その他供物をそなえます。
「墓標」・「さらし」
また、埋骨する日までに「墓標」に故人の戒名・俗名・享年・没年月日を石屋さんに頼んで彫ってもらいます。また、石屋さんにさらし(お骨納めに使う白い布
の袋)を頂きます。また本山などに分骨するかしないか決めておいてください.。





■埋葬とお墓





分骨用骨壺(左は喉仏用木筐)


「埋葬」
お骨はお墓に埋骨するか納骨堂に納骨するかします。まとめてここでは「埋葬」とします。埋葬するには墓地や納骨堂管理者の許可が必要です。一般的に、分骨の予定がなければ全部埋葬します。全部埋葬するか分骨するかはよくよく話し合ってください。
「分骨」
俗に「分骨すると成仏できない」ということがありますが、そんなことはありません。お釈迦様のお舎利(お骨)は八つに分けて印度各地に十の塔を建てて祀ったといいます。その一かけらが名古屋の日泰寺にあります。また、本山への分骨(写真の右の骨壺)は盛んに行なわれています。「分骨すると成仏できない」というのは、おそらく祭祀継承権と財産相続権が一緒だった時代に財産分与させず親の祀りを跡取りだけにさせるためにそのようなことを言ったのだろうと思います。昔は影祀り(跡取り以外の者が位牌を造って親を祀ること)でさえもさせなかったと聞きます。今では、祭祀継承権と財産相続権が別々ですから昔のように分骨や影祀りを忌む風習は薄れました。
「喉仏」
仏壇の中に「喉仏」(写真の左の木箱)を祀っている家がありますが、これはお墓が非常に遠く里帰りした時にしかお墓参りができなかったり、墓地が山の中にあって冬は深い雪のせいでお参りできなかったりといった事情がある場合です。
尚、写真の右の骨壺を覆っている透明の容器ですが、上部が球形で先端が尖った宝珠形をしています。これは滅びる肉体に対して不生不滅の法身(ほっしん)を表わしています。五輪塔やお塔婆の先端がこの宝珠形で五大(地・水・火・風・空)の空を表わしています。また、空は般若の智慧が悟る真空妙有であります。空とは何もないが宇宙を顕現させる莫大なエネルギーのことでありそれが、毘盧遮那(びるしゃな)です。
「改葬」
尚、お墓や納骨堂の移転などで一度埋葬したものを取り出して祀り直すことを「改葬」といいます。これには墓地や納骨堂管理者の許可が必要です。お墓や納骨堂に一度全骨埋葬したものを後から一部取り出して分骨する時も一部改葬となり墓地や納骨堂管理者への報告が必要です。また儀式が必要です。祭祀継承者以外の者が勝手に行なってはいけません。
「石塔」
お墓の一般的な建て方は、周囲を敷石で囲い玉砂利を敷き、下駄(台座)を履かせ、その上に福・禄・寿の義をこめた石を重ね3段構造にします。一番上の竿(長い石)に「○○家之墓」などと彫り、お墓の標識とします。昔は墓石の側面に戒名を彫ったのですが、今は別に墓標を設けそれに戒名等を彫る家が増えています。お塔婆を建てる禅宗などではお塔婆立てがあった方が便利です。
「五輪塔」
五輪塔は3段構造ではなく、下から四角・丸・屋根・半月・宝珠形の5段構造になっています。これは骨壺を覆っている透明の容器の説明でも述べましたように下から地・水・火・風・空の五大を表わしています。そして梵字が彫られます。五輪塔は肉体が五大に還ることを意味しています。五輪塔を建てることは非常に功徳があるといわれています。
石は外材が多くなりましたが、やはり国産の、特に四国の石が銘柄です。
「墓地管理費」
誤解している方も多いのですが、墓地を買うといっても、土地を買うわけではありません。登記簿は、その墓地を経営する宗教法人や公共団体のものです。永代使用権を条件付きで買うということです。だから大方、墓園の場合、管理費が発生するものです。墓地規則がある霊苑の場合長年にわたって管理費を滞納すると無縁仏として合祀する旨の広告が出されそれでも申し出がなければ撤去合祀される可能性があります。祭祀継承者は契約書や規則をよく読み理解してください。お墓についての詳しいことは、お墓を建てるときに、旦那寺さんの指示に従ってください。
「むしょ」
名古屋では、「むしょ」と行って八月六日にお墓に行く習慣があります。「むしょ」とは古語です。「墓所」と書き、「むしょ」と読みます。多分「むしょ」の「む」を「六」にかけ、八月六日にお墓参りするようになったのでしょう。
「お墓参り」
よくお墓参りで石塔の頭から全体に水をかける光景を見かけますが前石にくぼみがありますのでお水はそこに供えてください。お水が余ったら墓地の敷地にまいてください。お供物は持ち帰りましょう。
「盆始め」
尾張一宮の地方では、八月七日の月遅れの七夕の日に「墓所」にお参りする風習があります。これを「盆始め」と言います。尾張一宮地方は近代繊維業が盛んな地域で七夕の行事も盛大です。七夕と盆が習合して一連の行事となっているわけです。




■初盆・喪中・年忌・行事参加



「初盆棚経・お寺の盆行事」
初盆(新盆)は四十九日の忌が明けてから勤めます。七月十五日までに四十九日を勤めていればその年のお盆が初盆になります。七月十五日以降に忌明けが来る場合、その年の盆は初盆とはならず初盆は翌年の盆となります。初盆の棚経には親戚を呼び焼香してもらいお弁当を食べます。礼服でお参りします。
初盆の檀家さんは努めて菩提寺の「盆施食会」行事に参加しましょう。初盆は礼服で参加します。その次の年からは通常の年と同じく平服でお参りします。
「盆提灯」
親戚は相談して初盆に間に合うように「盆提灯」と「白提灯」を贈ります。白提灯は白字に家紋が入っていますがこれは初めてあの世から自分の家に帰ってくる上での目印で、初盆の時にしか使わず二年目からは掲げません。適宜に処分します。「盆提灯」は柄物の行燈一対を忌明け法要までに贈ることが多くなってきています。
「永代供養・総永代経」
四十九日の忌が明けてから菩提寺に「永代経」を上げその年のお寺の行事の「総永代経」或いは「彼岸会」の時に「入祠堂」或いは「新祠堂」となります。都会の人は永代供養と聞くと絶家になる家がお寺に上げるものだと勘違いなさっていますが檀家であれば忌が明ければ必ず菩提寺に永代経を上げお寺の総永代経の行事に参加することになっております。新祠堂永代経はまだ喪中なので喪服を着ますが次の年の永代経からは平服でお参りします。
「喪中」
忌が明けてもまだ喪中です。仏さまが出たら明くる年の年賀状は喪中に就きご無礼します。家から仏さまが出たら、翌年の門松・しめ縄等のお正月飾りはいたしません。また、神社・仏閣への初詣では差し控えます。これは死の穢れがまだ残っているのでおめでたい場である初詣の神社・仏閣には行けないという配慮からです。また祭神は喪中の家を忌むからです。
「年忌」
一周忌と翌年の三回忌は喪に就き喪服で臨みます。一周忌と三回忌は喪なので慶事である七回忌以後の他の仏さまの法事と併修できません。一周忌と翌年の三回忌は喪中です。お餅は晴れのめでたい時のごちそうですので供えません。
三回忌を過ぎたら喪が明けたことになります。もはや喪ではないので喪服を脱いで平服で臨みます。七回忌からは慶事ですので七回忌以降の仏さま同士の法事を併修しても構いません。
七回忌以降は家のお祭りですのでおめでたい晴れの時のごちそうであるお餅を供えます。
年忌は一周忌・三回忌・七回忌・十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・四十三回忌・四十七回忌・五十回忌まで勤めます。五十年を過ぎると先祖の仲間入りをするといわれます。永く続く家では祭りとして直系の当主の百回忌・百五十回忌・二百回忌などの遠忌を勤めることがあります。年忌は勤行後、会食して故人を偲ぶと共に親戚の交流の場にします。法事は一族の強い絆を確かめ合う場です。
年忌には霊供膳や供物(果物・饅頭・お餅など)を捧げます。
「蝋燭」
真宗さんでは、すぐに浄土に往生することから初七日から「赤い蝋燭」を使用します。禅宗などでは、忌中や喪中はもとより平時は「白い蝋燭」を使用します。赤い蝋燭は喪が明けてから、正月三元日や長寿祝いの時に使います。また喪中でなければ「仏壇開き」・「お墓開き」は本来慶事ですので赤い蝋燭です。一般には五十回忌で弔い上げとなります。弔い上げは赤い蝋燭です。
「弔い上げ」
その家の直系の当主と内室の位牌は五十年を過ぎても基本的に取っておきます。傍系の精霊を五十回忌で弔い上げにする時はお餅の他に赤飯を炊いてお供えしたりおすそ分けしたりします。
弔い上げた仏さんは菩提寺の住職さんに頼んで過去帳に記載してデータとして残しておきます。





付録:おひなさま





おひなさま


 
「概要」
昔から「おひなさまは二月の風に当てるものだ」といいます。管理の上からしてみても、年に一度は人形を出して湿気を取りかびていないかどうか確かめる必要があります。雨水におひなさまを飾ると良縁に恵まれるとも言います。また、なぜおひなさまの行事を行なうようになったのかというと、大陸では昔から奇数の月日が重なる節日(1月7日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日)を厄日として忌むので一種の厄払いとしたものが日本に定着して七草や桃の節句や端午の節句や七夕や重陽の節句を行なうようになったのです。ただし昔の行事は皆太陰暦でしたものですから、桃の花の咲く頃にあたるので、桃の節句といわれるようになったのです。またひな祭りを上巳(じょうし・じょうみ)の節句と言うのは旧暦の3月の一番初めの巳日に紙で人型を作って体を撫で厄を祓いそれを河川に流したことによります。
昔、赤ん坊に這子(ほうこ)を贈るのは、ほうそうなどの疫病神は赤を好むので、赤ちゃんの替わりに這子に憑くようにというおまじないからです。
話をひな人形に戻しますが、私が太興院の住職になる前に、三河のとある山寺で留守居役をしていたとき、その村のご婦人からこんな話を聞いたことがあります。毎年おひなさまを出すのに、とある年に限ってたまたま出さなかったことがあったそうです。するとひな祭りの日の晩になって就寝すると耳元で何人かの男女の話し声が聞こえて眠れなかったそうです。もしかして三人官女や五人囃子のひな人形たちのせいではないかと思い、明くる日、人形だけ出して風に当てるとその日の晩から話し声は聞こえなくなったそうです。顔のあるものにはじっと見つめているだけで精が入るといいます。なおざりにせず丁重に扱いたいものです。



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